脱力日記 -3ページ目

脱力日記

出口の見えない毎日に、

仕事に疲れたあなたにヒザカックン。

それは日本の映画界に舞い降りた、とびきり不機嫌な天使。

脱力日記-まりこ


「振り返れば、ほぼ半世紀、嵐のように生きてきた。ひたすら自分の感性に忠実に。心に響くものにまっすぐに向かいながら——」

 女優・加賀まりこが、自著のエピローグに添えた一文。それは彼女自身の人生を、どんな言葉よりもよく表現している。

 彼女は東京・神田に生まれ、神楽坂で育った。中学生でジャズ喫茶に入り浸り、高校生になる頃にはすでに六本木で遊び回るほど、早熟な少女だった。高校在学中、路上でスカウトされ、17歳で映画界へ。「僕らが撮る映画にあなたに出て欲しいんです」。そう言って彼女を見初めたのは、後に巨匠と呼ばれる寺山修司と篠田正浩だった。それは彼女の魅力がいかに際立っていたかを物語るエピソードだろう。

 不満そうに突き出された唇、挑むようにカメラを射る大きな瞳。純真無垢なあどけなさと娼婦のようなアンニュイな色気が混在する、強烈な存在感……。人々はそんな彼女を、一世を風靡したフランスのセックス・シンボルになぞらえて「和製ブリジット・バルドー」「小悪魔」などと呼ぶようになった。

 中でも、1964年に公開された主演作『月曜日のユカ』の役柄は印象的だ。ナイトクラブで片手にグラス、指先にタバコを挟みながら、大勢の男たちを虜にする18歳のユカ。平気で男と寝るくせに、キスは誰にも許さない。真実の愛が欲しいけれど、その求め方がわからない。既製のモラルを軽々と飛び越え、傷つきながらも自分らしく愛を貫こうとするユカの姿は、まるで当時の彼女そのもののようだ。



 媚びることを知らない、不機嫌な天使。そのキャラクターは、スクリーンの外でも変わらなかった。嘘やごまかしを嫌う彼女の言動は、常に大胆でストレートだった。突然の女優休業、パリ留学、そして“未婚の母”宣言……。シングルマザーなどという言葉もない時代、当然のように彼女を強烈なバッシングが襲った。それでも彼女はひるまなかった。「私が私の子を産んで、何がいけないの?」。そう言って、堂々と振る舞い続けたのだ。

 世間を敵に回してまで産んだ子との永遠の別れ、その後の結婚・離婚、数え切れないほどのラブ・アフェア。彼女自身の言葉にもある通り、その半生はまさに「嵐のよう」だった。自分らしくあるため、果敢に人生を切り開いてきたかつての小悪魔は、年を重ね、いつしか人々に慕われる“姉御”になった。スクリーン以外の場所では決して演じず、自分を偽らなかった女優・加賀まりこ。その生き様は、これからも多くの人々に勇気を与え続けることだろう。


Text by Risa Shoji
参考資料:『純情ババァになりました。』(講談社文庫)
初出:『FILT』vol.29(2009年)
脱力日記-kate03


 ケイト・モスは、あらゆる意味で特別な存在だ。
90年代初頭、彼女のランウェイへの登場が、すでに一つの事件だった。ロンドンで生まれた彼女は、14歳のとき空港でスカウトされ、15歳で初めてのショーに立つ。それまでステージの上を独占していたグラマラスなモデルたちとは対照的な小柄で痩せた身体に、媚のない気だるい表情。「ウェイフ(浮浪者の意味)・モデル」と名付けられた彼女は、やがて新しい時代のミューズとして世界中から注目を集める存在になっていく……。
 ケイトは私生活においても常に世間の注目の的だった。ショーン・ペンやレニー・クラヴィッツ、そしてジョニー・デップとの恋。パーティ狂いで大の酒好き、という奔放なライフスタイル。そしてまた、彼女は大のたばこ好きでもあった。洗練されたファッションに身を包み、美しい指にたばこを挟んでロンドンの街を闊歩するケイトの姿は、いつしか彼女のトレードマークになった。
 けれども、そんなケイトに致命的なスキャンダルが発覚する。2005年秋、イギリスの大衆紙がドラッグに耽る彼女の姿を大々的に報じたのだ。そこには“コカイン・ケイト”という不名誉な見出しが踊っていた。ダーティな噂の絶えなかった恋人のミュージシャン、ピート・ドハーティは逮捕され、彼女自身も長くブランドの顔を務めてきたシャネルやH&Mの広告契約を失ってしまう。
 彼女のモデルとしての人生は終わった――。誰もがそう思った。しかし、そんなスキャンダルでさえ、彼女の圧倒的な存在感を脅かすことはできなかった。なぜなら他の多くのブランドにとって、まだ彼女は必要な存在だったからだ。実際、ロンシャンやバーバリーなどのビッグメゾンが、次々に彼女を広告に起用した。そう、彼女には手を差し伸べてくれる味方がまだ大勢いたのである。
 そんな彼女の復活劇のハイライトは、盟友のデザイナー、アレキサンダー・マックイーンの2006年秋冬コレクションのステージだろう。ショーのフィナーレ近く、ランウェイの中央に設えられたガラスのピラミッドの中に白いスモークとともに現れたのは、なんとホログラム(3D映像)のケイトだった。



 オーガンジーのフリルを幾重にも重ねた白いドレスを纏い、切なく甘いヴァイオリンの旋律に合わせて宙をたゆたうケイトは、まるで儚い煙そのものだ。この世のものとは思えない幻想的な美をたたえた彼女の姿に、会場からはため息と賞賛の拍手が湧き上がる。それは永遠の時代のミューズ・ケイトが、まさに“女神”となって蘇った瞬間でもあった。
 煙のように儚く、すべてが消費されていくファッションの世界へ再び舞い戻ったケイト。不滅のミューズは、永遠に女の子たちの憧れであり続け、これからもますますその輝きを増していくことだろう。

脱力日記-kate01


参考文献/『美しき呪われし者』(P-Vine BOOks)


デ・パルマの「ブラック・ダリア」を観た。

原作はジェイムズ・エルロイの同名小説。
1947年に実際に起こった猟奇殺人事件を元にした、
いわゆる「暗黒のLA4部作」の第1作にあたる作品だ。

ロスの繁華街の空地に、マネキンのように捨てられた切断死体。
腰でまっぷたつにされ、血抜きされ、臓器を取り除かれ、
口の両端を耳まで裂かれた死体。
被害者は「ブラック・ダリア」と呼ばれた女優志願の女、
エリザベス・ショート、22歳。
黒髪で、黒い服を好んで着たことからそう呼ばれていたという。
これまで500人以上がその「世界で最も美しい死体」の「作者」
だと名乗り出て、そのすべてが偽物であった。
2007年現在、いまだに真犯人逮捕には至っていない。

ジェイムズ・エルロイの作品は、
実際に起きたブラック・ダリア事件を縦軸に、
腐敗したロス市警やハリウッドの成金たちのエピソードを横軸に絡めながら、
優れたミステリーとして仕上げられている。

しかし、私にとって小説よりもっと興味深いのは、
彼自身が10歳のときに母親を何者かに殺されている、という事実だ。
彼の人生に大きな影を落としたその事件もまた、未解決のままだ。
彼が33歳で処女作を世に出すまで、ドラッグやアルコール、
あらゆる犯罪に手を染めて生きる原因になり、
そして名作「ブラック・ダリア」を生み出す動機となったその事件とは、
いったいどのようなものだったのか?

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1958年6月。ロス郊外エルモンテのひっそりとした路地で、
着衣の乱れた女性の死体が発見される。
プリント柄のドレスはやぶれて腹までめくりあげられ、
下着ははぎとられ、ブラジャーはそばの蔦にひっかかっていた。
ストッキングの片方はくるぶしまで引き下げられ、
もう一方は遺体の首に巻き付いていた。
引きちぎられたネックレスの真珠が散乱する中、
横たわる赤毛の女の美しい死体。
そして指に残された、大きなまがいものの真珠の指輪。

それが、エルロイの母ジーン・エルロイの最後の姿である。
彼は事件の夜、離婚して離れて暮らす父の家で眠っていた。
母の身に起こっていた取り返しのつかない出来事を何も知らず、
その死を防ぐことができなかったという後悔は、
その後の彼の人生に単なる「後悔」という言葉では
片付けられないほど大きな影響を与えることとなる。

じつは事件の直前、彼は母親に
「パパとママと、どっちと一緒に暮らしたいか」と尋ねられていた。
彼は「父親と暮らしたい」と答え、母はそんな彼を思わず殴ったという。
そのとき、彼は「もう二度と彼女に殴らせはしない」と誓った。
その気まぐれな誓いは、やがて彼をゆっくりと追いつめていく。
なぜなら、彼は「母を殺してしまった」という思いに
一生つきまとわれることになったのだから。

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赤毛のグラマーで、性的に奔放だった母との暮らしは、
少年エルロイにとってじつに堪え難いものだった。
彼はことあるごとにバスタブの中に潜んでは、
母親が裸で用を足しに来る幸運を待ち続けた。
制御しがたい性の衝動をどうすることもできず、
友達のまえで性器を露出したり、異常なまでに自慰に耽った。
そんなふうに昏く、甘い、秘密の性を背負ってしまった彼は、
母の死後、 同じように殺され、路上に捨てられたブラックダリアに恋をする。

母の死の直後、その事件を知った彼は、
彼女に関する書籍を万引きし、部屋の壁一面に彼女の写真を貼り付けた。
彼は「色っぽい黒髪の女」に夢中になることで、
「色っぽい赤毛の母親」から目をそむけたのだ。
まもなく彼はアルコールと麻薬に溺れ、そして盗みとのぞきの常習者になった。

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それらすべてを克服して作家となった彼は、その作品の中で、
今も「母を殺したかもしれない人間」について描き続けている。
『ブラック・ダリア』は、ロス警察とハリウッドの裏社会の腐敗によって殺され、
『秘密捜査』では、妻に会いにいく車中で息子に薬を盛った父親が、
息子がもうろうとしている間に妻を殺す。

しかし不思議なのは、エルロイ自身が母親を殺した真犯人について
おどろくほど凡庸な見解を持っている、ということだ。
母親が最後に目撃されたとき、彼女はブロンドの女と黒髪の男とバーの中にいた。

「あの晩、母は飲みに出たんだろう。なにしろアル中気味で尻軽だった。
その男と女に出会った。彼女は辛辣で、学問もあった。
きっと男が手を出そうとしたんだろう。彼女はノーとはねつけた。
それで、取り返しがつかないことになった。男は常習的な性犯罪者じゃないし、
連続殺人者でもなかった。あれは単独事件だよ」

「犯人はエルモンテの人間だが、あのバーの常連ではなかったんだろう。
そうでなければ、身元が割れたはずだ。彼女の死体をあそこへ運んで捨て、
家に戻って二ヶ月ばかりびくびくして過ごし、そして無事に隠れ仰せた。
間違った状況で、間違った男と女が出会ってしまった、そういうことだったんだろうな」

しかし、彼の作品の中には、そんな結末は一度も出てこない。
エルロイが本当にその男女二人組の犯行説を信じているなら、
なぜ自伝的要素が強い彼の作品に一度もそれらしき事件が出てこないのだろう?

きっと彼には、そんな風に「平凡な結末」をことさらに主張したい理由があるのだろう。
彼の中には、まったく根拠に欠けているけれど、
とてつもなく確信めいたひとつの真実があった。
エルロイは、母を殺した真犯人を父親だと思っているのだ。
そして、自分自身である、とも。

母が殺された土曜日の晩、彼は眠っていた。
彼が寝ている間、彼の父親が何をしたのか、何をしなかったのか、 彼は知らない。
薬を盛られて父の運転する車の後部座席に寝かされ、
アリバイに利用された『秘密捜査』の中の少年と同じように。

彼は無意識に(あるいはすべてわかった上で)こう結論付ける。
息子の親権を強く望み、勇敢で鳴らした陸軍将校でもあった父親なら、
母親を殺すこともできたのではないか、と。
そして何よりも「二度と殴らせたりするものか」という彼自身の誓い。
現実はそうでなくとも、エルロイの中で彼自身は犯罪者であり、
母を殺した父親の共犯者なのだ。

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この内容は、レノア・テアが書いた本「記憶を消す子供たち」の
第7章「ブラック・ダリアの息子」に詳述されている。
トラウマ研究者のレノアが、エルロイを訪ね、
彼と彼の作品にこびりついたトラウマについて分析したものだ。

この章の最後には、とても興味深い一節がある。
自身の作品の中で、執拗なまでに死体損壊を描くエルロイが、
あれだけ執着した母の遺体についてまったく忘れていた事実がある、という部分だ。

「お母さんの首には、ストッキングが巻き付いていましたね」
「そう、そうだ……ずっと、そのことに気付かなかった!」

それは直接の凶器ではなく、彼女の死後、遺体に「細工」されたものだ。
そして、エルロイの作品の中に、ストッキングは一度も出てこない。

「いや、ぞっとしたよ」エルロイは言う。
「あなたのインタビューで、ぞっとしたのはいまがはじめてだ。
先週、ローリングストーン誌の記者たちと母親の殺人現場に
行った時だって、ぞっとなんかしなかったが」

エルロイは、母の首に巻き付いた“たった一本のストッキング”を
記憶の底に閉じ込め、思い出さずに済ますため、
作品の中の死体に「それ以外の」あらゆる細工を施していたのである。

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人間の中の、些細な、たったひとつの記憶の断片。
それが創造力によって倍加され、言葉や態度、
あるいは表現や事件という形で世の中に放り出されたとき、
人々はそれが「どこに端を発しているか」について知らなさすぎる。

いまだに解決されていないブラック・ダリア事件。
彼女は、女優を夢見てハリウッドに辿り着き、そして殺された。
たった一つの解しか持たないはずのその真実について、
多くの他者が触れようとするとき、真実は無限に分裂していく。

わたしたちは、決して忘れてはならない。
わたしたちが、そんなふうに無数の断片を持つ
真実らしきものにまみれた世の中に生きている、ということを。



*欽ちゃん取材の打合せ

某誌で欽ちゃんこと萩本欽一さんを取材することに。
大御所だけに緊張する。
青山スパイラルでスタッフ打合せ。
編集Oさん、Eさん、カメラマンNさんと。

Nさんとは以前、フラウでいっしょにお仕事したことがある。
ラブ&ピースがモットーのすごく元気な人(声でかめ)。
「いやー、欽ちゃんに会えるなんて。うれしいな!」
と5分に一回、喜びを表現する。
40歳を超えても、イノセンスを失わないNさん。見習いたい。

打合せの内容としては、
どのタイミングで「萩本さん」から「欽ちゃん!」へ、
最終的には「大将!」と呼び方をシフトさせるかという点に終始。

だいじょうぶなのか。

*取材当日。

都内のホテルの一室にて某誌のインタビュー。
欽ちゃんの入りは14時。
やや遅れ気味&風邪気味のためタクシーにてホテルに向かう。
すると20分以上も前なのに
「欽ちゃん来ちゃいました!」と編集Oさんからテンパッた電話。 えー!
タクシーの運転手さんを
「もっと早く! 私の人生がかかってるんデス!」
とせかしまくる。
いてもたってもいられず、後部座席でタクシーを漕ぐ私。
たぶんその推進力は時速1キロ分くらいにはなっていたと思う。

無事、ホテル前に到着したものの、財布がない! ない!ない!
半泣きで「ぜったい払いますから! ぜったい払いますから!」
と運転手さんに名刺を押しつけ、無賃乗車。

部屋にはすでに欽ちゃんほか、スタッフがスタンバイ。
インタビュアー的にはかなりアウトな状況。
大御所を前にして、部屋にははりつめた空気が。
あまりのヤバさに呼吸が浅くなる。
テンパッた私は
「本日は遅れまして、大変失礼もうしわけございませ……」と
座った拍子に、イスごとひっくり返ってしまう。どしーん。

すると、欽ちゃんが一言。「いやあ、いいツカミだね!」
部屋の中の空気が一気になごむ。
そしてインタビューはいろいろ脱線しながらも無事終了。
いやあ、マジで死ぬかと思った。

欽ちゃんが帰ったあと、スタッフに
「庄司サン、体張ってますね~」と皮肉られる。
なんど「ちがう」と言っても、Nさんだけは
「遅れてきたのも計算のうちでしょ? きみすごいよ!」
と信じてくれない。
ほんとに計算づくなら、
そしてもっと私の人間としての器が大きければ、
部屋に入るときから「欽ちゃん走り」してる。

そんなNさんだけが、最初から最後まで
萩本さんに対して「欽ちゃん!」を連発。
そして最後はしっかり「大将! またお会いしましょう!」
と、ひとり打合せ時の懸案事項をあっさりとクリア。

一方、所持金ゼロの私。編集0さんに泣きついて2000円借りる。
恥ずかしくって、再び死ぬかと思った。
ほんとに慌てるとロクなことがない。
慌て者は、二度死ぬ。もちろん、バンザイもなしだ。


*後日談

ちなみに運賃は本日現金書留でちゃんと送りました。
安全タクシーの○川さん、ほんとうにありがとう。


※「バンザイなしよ」がわからない人はググって調べてね。


「『理不尽』って『リーさんの奥さん』のことだと思ってました~」

数年前、当時つきあっていた彼と同居していたN君、衝撃の告白。
25年間、彼は「理不尽」を「リー夫人」と信じて生きてきた。
これはネタでなくて実話だということを最初にお断りしておきたい。
イッツリアル。ヒーイズナチュラル。

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元カレは当時、3LDKの一軒家を3人でシェアしていて、
その中の1人が前回の日記に登場したI君(鬼畜)である。
そんなI君の6畳間にある日、くだんのN君が転がり込んできた。
なんでもアメリカに行くまでの間、仮住まいしたいという。
N君は「ギター1本だけ持って、弾き語りしながらアメリカ大陸を横断する」という壮大な夢を持っていた。
彼は夢だけ持って、ギター以外の持ち物をすべて処分し、部屋を引き払っちゃって行く宛がないのだという。
よくよく聞いてみれば、家賃を払えなくなって部屋を追い出されたのが真相、というのは後になってからわかった話。

N君は広尾でショップ店員をしていた。
音楽が大好きで、部屋にいるときはいつもギターを弾いていた。
たしかにギターの腕前はなかなかのものだった。
「りささんのイメージで、1曲弾きますよ」
と言って、しょっちゅう曲を披露してくれるのだが、弾き始めたメロディがなんかいつも似てる。
ちがうのかもしれないけど、私には同じに聴こえた。ごめん。

そんな彼はちょっと類を見ないぐらいの凄まじい天然ボケだった。
生まれもってのボケキャラ。英訳するならナチュラル・ボーン・ボケである。
例えば、私と元カレがかなり激しいののしり合いのケンカしてる最中に

「りささん! 将来の夢は何ですか?」

とか聞いてくるのだ。 もう「なんで!」ってタイミングで「なんで?」ってことを質問するN君。
ちょっと見はトムクルーズ似のオシャレなクールガイなだけに、たちが悪い。
I君同様、だまされて困惑した女子は多数。

I君とN君は中学校の同級生であった。
地元は関西。しかし関西人であるということを差し引いても彼ら2人はおもしろかった。
より正確にいうならば、人としてどうなんだ、という点でおもしろい2人であった。
以下に、中学時代の話になったときの会話を抜粋。

N「オレ、よく学校行くフリして公園の滑り台の下に布団持ってって寝てたなあ。懐かしいなあ」
I「そやんなー、おまえよう寝てたなー。なんであの頃あんな眠かったんやろ」
私「滑り台の下で寝てた? 布団敷いて?」
N「Iん家に侵入したこともあったなあ」
I「そうそう、学校行く途中、猛烈に眠くなってん。家に戻って寝ようとしたらカギ閉まってて入られへんから、
その辺にあった石で窓ガラス割って入って寝てて、 親に警察呼ばれたなー」
(中略)
I「でもおまえ、ほんまアホやったなあ」
N「あはははは」
I「国語んとき教科書読まされて、漢字んとこぜんぶ飛ばしてひらがなんとこだけ読んでるし」
N「あはははは」
I「最近まで『理不尽』の意味も知らんかったしなー」

ここで冒頭の一言につながるわけである。
理不尽をリーさんの奥さんだと思っていたN君だが、心根は誰よりもやさしかった。
私が彼とケンカして落ち込んでいると、ギターとチューハイを持って現れて、例のオリジナル曲を弾いて慰めてくれた。
ある時は、いっしょにビデオを見ようと誘ってくれた。

「りささん、おすすめの映画があるんです。元気になりますよ」

彼が見せてくれたのはジャッキーチェンのプロジェクトA。たしかに元気になった。
オープニングの『A計画』っていう力強いフォントで描かれた文字を見ただけで、なんかケンカのことなんてどうでもよくなった。

一方、私以上に元気になったのはN君である。
チャーチャッチャ チャーチャチャ チャッチャチャーチャチャー♪
というあのテーマソングをいっしょになって歌っている。
「オレ、あのジャッキーの来てるセーラー服が欲しいんですよ」
「こういう店員(次長課長のネタにもなってるアレ)のいる店で中華食いたいなあ」
「やっぱりいいなあ、ジャッキー。落ち着くわー」
と、興奮気味に私に熱く語り続けるのであった。

そして彼は急に真剣な目でこう言った。
「りささん、お願いがあるんです」
「なに?」
「これをもらって欲しいんです」
彼が差し出したのは一冊のスケッチブック。
開いてみると友達や有名人のポートレートが何枚も何枚もえんぴつで書かれていた。
これがめちゃくちゃ上手いのだ。ギターの比じゃないくらい。
「ちょっと何コレ! もらっちゃっていいの?」
「はい。アメリカに行ったら何があるかわからないし……。死ぬかもしれないじゃないですか。そのときは形見にしてください」
「形見とかはどうでもいいけど、すごい上手だね。ギターで食ってくより、絵を描いた方がいいと思うよ」
「いや、オレは音楽が好きなんで……」

ところがそんなやり取りのあと、N君にはフロアマネージャーの話が突如として舞い込んで、彼はあっさりアメリカ行きをやめてしまった。
さらに会社が渋谷にワンルームマンションを借りてくれたのでこの家も出て行くことになった。
「オレのことを信頼してくれてる社長を裏切るわけにはいかないです」
無念の表情を浮かべ、日本にとどまる決意をしたN君だったが、引っ越し先のマンションに遊びに行った時は
「いやー、仕事も新しい部屋もすっごい快調ですよ!」
と楽しそうだった。なにはともあれ、アメリカに行かないでよかったんだと思う。死なないで済んだし。

その後、N君はいろいろあって実家に戻ったらしいと聴いた。
そして形見としてもらったスケッチブックは、私の手元に大切に保管してある。

むだに筆力のあるきみのこと、私は忘れないよ。
きみが弾いてくれたあの曲のことも忘れないよ。
だって何度も聴いたから。ちなみにコードはE。

今も彼は日本のどこかにいる。
そんなN君に今とても逢いたい。
逢いたいっていうか、見たい。

※会話中の関西弁は適当です。誰か校正してー。
今日は高校時代の友・Dについての覚書。

私の通う県立高校は、神奈川県では10本の指に入る進学校であった。
あえて断っておくと、これはささやかな自慢である。えっへん。
入学式。当然ながら、いわゆる「不良」みたいな人は皆無である。ゼロに等しい。都会でツチノコ探すぐらい難しい。
そんな中、1人、短ランにボンタン(違反ズボン)、先が異様にとんがった威嚇的な革靴、頭は湘南爆走族みたいな新入生がいた。Dである。
あまりにもツッコミどころ満載の風体は、逆にどこから突っ込んでいいのかわからない。なんだきみは。気志團の綾小路団長か。
彼の存在は、すぐさま噂となって広まった。
彼は県でナンバーワンのS高校に失敗し、仕方なくここの2時募集で越境入学。しかし、実家は裕福で、湘南の豪邸に住んでいるらしい……。誰からともなく、そんな彼のプロフィールがほのかな悪意とともに洩れ伝わってきた。

Dは私と同じラグビー部であった(私はマネージャー)。
彼は全体的にとても不遜な人であった。彼のそんな態度からは「不本意なところへ来てしまった」という感じがありありと伝わってきた。入部当初、彼はたいへんひねくれていて、何かというと人の揚げ足を取り、二言目には「だりい」「うぜぇ」と言い放つ。次第に、なんとなくみんな彼を敬遠するようになった。まあ当然といえば当然だ。

そんなDのお母さんは、ラグビー部の試合をよく観戦しにきてくれた。
Dの遺伝子を感じさせない、いかにも湘南あたりの上品な感じのご婦人だった。
試合を見に来る時、お母さんは必ず差し入れを用意してくれた。
それはきまって「トロピカーナ」であった。トロピカーナといえば果汁100%、そこいらのジュースとは一線を画すジュース界のエリートである。これを数十本用意するとなれば、けっこういい値段になるはずだ。さすがお金持ち、太っ腹である。
そんなわけで、部員たちはDのお母さんの姿を見つけると「今日はジュースだ!」と言ってにわかに張り切りだすのであった。Dに対する微妙な感情はこの際どうでもいい、という感じであった。

部員や級友から距離を置かれたDは、悩んでいた様子だった。1年も経つと、次第に歩み寄りの姿勢を見せ始め、短ランを脱ぎ、ヘアスタイルもふつうの短髪に。その頃から、彼は丸くなったような気がする。

そんな中、部内で飲み会が開かれたときのこと。私の隣にやってきたDは、突然自分話を語り始めた。
優秀なお兄ちゃんと比べられてつらかったこと。
人との距離感がうまくつかめなくて、つい攻撃的に構えてしまうこと。
そんな心中を訥々と打ち明けるDであった。
彼が何らかのコンプレックスを抱えているのはその態度から誰の目にも明らかだったけれど、初めて知ったような顔でうなづいてみる。私もたいそう悪いやつである。さらに告白を続けるD。

「オレ、生まれたとき、千代丸って名前にされそうだったんだよね」
「は?」
「なんかわかんないけど、千代丸に決まってたんだよ。それを母親が阻止したらしいんだよね」
「そっか、あぶないところだったね」

と、わけのわからないリアクションでしのぐ私。
もし千代丸と命名されていたら、彼はもっと修正不可能なぐらいひねくれてたんじゃないかな、とか思ってみる。身を挺して「千代丸」からDを守ったお母さん。いつもトロピカーナを控えめに手渡すお母さんの姿が思い出された。そうか。これが愛ってやつか。なぜかそのとき、私はそう確信した。

それ以来、彼はみんなから愛されるとは言わないまでも、距離を置かれることなく3年間を全うした。卒業後は、サーフィン三昧でモテまくりの毎日を送っていると風のうわさできいた。そんな彼とは同窓会のお知らせで電話をしたとき、一度話したきりである。電話の向こうの彼は、「なんか用?」といたってクール。なんとなく高校一年の頃の不遜な感じに戻っていた。もちろん同窓会には欠席。

べつに恨んでるわけじゃない。でも、千代丸って名前つけられちゃえばよかったのに、とちょっと思った。ほんとにちょっとだけ、そう思った。

彼がこのブログ読んでませんように。

最初に断っておくが、これは私の恥の記憶だ。

大学に入りたての頃、イベントコンパニオンのバイトをした。 私はその頃、とにかくお金が欲しかった。報道調に言うなら「遊ぶ金欲しさに」といったところだ。友達はみんなキャバクラなどの色っぽいバイトをして荒稼ぎ、もしくは家がお金持ちで働かなくても豪遊できる身分だった。喫茶店でお盆の上の水をこぼさぬようにハラハラしながら時給800円でバイトするなんてばからしい、そんな風に感じた。

ポストに入っていたアルバイト情報チラシにあった「時給2500円」につられて、私はイベントコンパニオンなるバイトの存在を知った。 そこには「ホテルなどの宴会場、パーティ会場でドリンクなどのサービスをするお仕事です。ドレス貸与」と書かれていた。無知な私は、この一文を真に受けて横浜のブロンクス、黄金町にほどちかい事務所へ面接に行った。

アニマル浜口に似た柄シャツのおじさんが私の面接を担当した。 おっさんは私が「日ペンの美子ちゃん」で鍛えた達筆で3回も書き直した履歴書には2秒ほどしか目もくれず、「じゃあ、とりあえず研修入って」とか言う。 「え?」とか聞き直す間もなく、私はショッキングピンク色のスーツを手渡された。膝上5センチという微妙丈のタイトスカートに、80年代丸出しの大きな襟付きジャケット。しかも襟部分だけなぜか白。 別室で着替えさせられるも、サイズが体に合わず、袖が7分丈状態の情けない姿のまま、私はあっという間に白色のバンに押し込められた。

そこにはすでに6人ほどの女性がいた。たぶんみんな20代。一人だけ生活臭漂う30代の女性がいた。もちろん、みんなとは初対面。私は誰一人とも目を合わすことも出きず、いちばん後ろの席にこっそり陣取った。その時点で泣きそうな私。なぜか「お母さん、助けて」と叫びたくなった。

気づけばバンは真鶴街道を走っている。窓の外には白波の立つ海。いったいどこに連れて行かれるのか。不安で呼吸が荒くなる。 他の女性たちは慣れた様子で、最近の情事について話している。中でもB-Girl風の女性(色黒)はノリノリで、昨日出会った黒人のナイスガイと軽自動車の中でヤッたらシートが壊れたなんて自慢している。18歳で未だ処女だった私は「もう絶対にまわされて・バラされて・捨てられる。私の人生も今日で終わりだ」と恐怖におののいた。

移動すること約2時間。私は熱海の旅館にいた。
「きみは今日、初めてだからあっちのお座敷ね」と「鶴の間」と書かれた部屋を指差すアニマル浜口似のおっさん。何よりも、いつのまにワープしてきたかのごとく旅館に先回りしてるおっさんのフットワークに驚いた。

私とチームを組んだのは、先ほどの30代の女性。「緊張しなくても大丈夫だから」って、このシチュエーションで緊張するなという方が無理だ。 廊下でもじもじしていると、他の部屋から現れた酔客がすれちがいざま尻を撫でた。でも相手は見るからにヤクザ。心停止寸前になりながら、ふと、頭の中をダイイングメッセージという言葉がよぎる。死に際には血文字で893と書くべきか、と一瞬悩む。

不幸中の幸いとはこういうことを言うのか。「鶴の間」の宴会は「アマチュア無線の会」のオフ会とのことだった。広間に集まったのは30人ほどのおじさんたち。推定平均年齢50歳。とたんに緊張の糸が切れる私。30代の女性に促され、「本日、お座敷につくことになりましたショウジデス」なんて自己紹介させられる。おっさんたち、なぜか拍手。

仕事の内容は、グラスが空いたらビールをつげばいい程度のいたって簡単なものだった。しかも、ハム仲間のおっさんたちは無線の会話に夢中。私たちの存在などまるで無視。ことあるごとに
「それは、○○さん、トンツートントンツ-ですよ」
「いやいや、むしろトンツーツーツートントンでしょう」
などと意味不明な隠語が飛び交い、なぜか爆笑の渦。すっかりおいてけぼりをくう私と30代の女性チーム。30代の女性は、どさくさにまぎれてビールをがぶ飲みしていた。

宴も終盤、やっと私たちの存在に注目しだしたハム仲間たち。カラオケでデュエットを強要される。知らない演歌のため、ひどい結果に終わる。さらに、デュエットしたおっさんに「きみまだ学生でしょ? だめだよ、こんなバイトしちゃ」と説教をくらう。「ですよね」とつい卑屈な笑みを浮かべてしまった自分を殺したくなる。

宴は2時間で終了。これでバイト代は2500円×2=5000円。熱海まで来てこんな思いして5000円。30代の女性は「2次会はないんですか」とおっさんたちに食い下がっていた。どうやら、イベントコンパニオンはこれからが勝負で、2次会、3次会までおつきあいすると「おひねり」という形で給料が発生するのだそうだ。ただし、体の保証はない。1次会以降におこったことはすべて自己責任。怖くて逃げ腰になる私の腕をつかまえて2次会を強引に開催しようとする30代女性の表情は、まるで鬼の形相だった。

ハム仲間たちはあっさり1次会で解散。30代女性は、他のお座敷の2次会に強引に参加していった。私はトイレで速攻、私服に着替え、熱海発の東海道線上りの最終に飛び乗った。大船で根岸線に乗り換えるも、泥のように疲れて、一駅寝過ごす。当然、バスはない。タクシーに乗って660円の痛い出費。

後日、私の元に振り込まれた金額は4500円。なんで? と思ったらスーツのクリーニング代として500円差し引かれたと判明した。帰りの電車賃とタクシー代を引くと残りは3000円弱。えー!

いったい私は熱海まで何しに行ったんだ。世の中においしい話なんてない、と悟った18の夜。以来、おいしい目になんて一度もあったことありません。 労働ってすばらしい。



一部の友人は、私のことをこう呼んでいる。

かつて、私は極めて引っ込み思案な子供であった。

人との距離の取り方がわからない。
言いたいことが上手に言えない。
成績もパッとしない。
本当は積極的に発言したり立派な作文を書いたりして先生に褒められる子供になりたかった私は、次第に「このままじゃいけない」と真剣に思いつめるようになった。

小学校4年生のある日。私たちはクラスのリーダー「学級委員」を決める日を翌日に控えていた。
放課後のホームルームで「立候補する人は手を上げてください」と先生。すかさず誰かが「Hさんがいいと思います!」とか言う。Hさんは学級委員の常連で、成績優秀、夏休みには持ち帰ったへちまを丸々と太らせてくるクラスの人気者である。他にもOさん、Tくんなど常連候補者の名前が挙がった。
なんとかして自分を変えたい、と思いつめていた私は、学級委員に立候補するとひそかに決意していた。しかし、立候補者ゼロの現状では、さすがに挙手するのがためらわれた。
「立候補する人はいないの?」と最後に念を押す先生。するとクラスいちのバカキャラKがウケ狙いで挙手。私はこの機を逃すまいと、混乱に乗じて手を挙げた。
好きな人に告白するぐらい、どきどきしたのを覚えている。
かくして、私の名前はいちばん最後にラインナップされたのであった。
「それでは、明日の朝のホームルームで投票します」と先生。明日の朝。それは私の人生において最初の正念場であった。

翌日。各人の手元に小さな紙切れが配られた。そこに自分が推す候補者の名前を記入するのである。当然のごとく、私は自分の名前をそこに記し、小さく折りたたんで回収箱に入れた。
ホームルーム委員の手による開票が始まる。次々に昨日黒板に書かれた名前の下に「正」の字が書き込まれていく。しかしながら私の名前の下には棒の1本も引かれない。私の額を嫌な汗が伝った。

しばらくして級友たちが「あれ? なんでショウジの名前が書いてあるの?」とか騒ぎ始めた。いよいよもって立場のない私。「えーと……、なんでかな?」などとすっかり弱気になってとぼけて見たそのとき。
最後の最後になって、私が投じた一票が開票され、ゆっくりと一本の棒線が私の名前の下に書き加えられた。
ざわめく教室。首を傾げるホームルーム委員。ありえないダークホースの出現に、とまどう生徒たち。みんな気づいていなかったのだ。私が立候補していたことに。私はこういった場における己の存在感のなさに、打ちのめされることとなった。

この1件は悪質ないたずらという風に処理され、私の名前はホームルーム委員の手によって一撃の下に消し去られることとなった。
学級委員選挙は予想にたがわず、Oさんの圧勝で幕引きとなった。
私はといえば、「生き物係」などという地味にもほどがある役職を与えられ、それから半年間、めだかの世話に明け暮れることとなった。
その後、水槽を掃除しようとしてうっかりめだか数匹を排水溝に流してしまい、同僚の生き物係・M君を大泣きさせるという不祥事を起こし、生き物係からも左遷されるという憂き目にあった。
しかし、5年生になってから私は立派にリベンジを果たし、学級委員になることができた。それに関しては、また機会を改めることにする。

ところでなぜ「リサイチ」なのかというと、そのとき黒板に書かれた私の名前が「リサー」(リサイチ)に見えた、という話を大人になってから友人に話したところひどく笑われ、それ以降、この不名誉な名で呼ばれるようになったからである。

どこをとってみても、ろくでもない思い出。アーメン。